歯列矯正を決意してから数週間、期待と、それを何倍も上回る不安を抱えて、私はブラケットの装着日を迎えました。歯科医院の椅子が倒され、口の中に様々な器具が入ってくる。歯の表面が念入りに掃除され、いよいよ、小さなブラケットが接着剤で一つ、また一つと歯に取り付けられていく。その過程に痛みは全くありません。ただ、自分の歯というテリトリーが、静かに、しかし確実に、未知の金属片に乗っ取られていくような、なんとも言えない不思議な感覚だけがありました。全ての歯にブラケットがつき、最後にワイヤーが通された瞬間、私の口の中の世界は一変しました。そこには、これまで経験したことのない圧倒的な「存在感」が生まれたのです。唇を閉じようとすると、内側からブラケットがもっこりと主張してきて、完全に閉じきらない。舌で歯をなぞろうとしても、そこに広がるのは滑らかなエナメル質ではなく、複雑に絡み合った線路のような、冷たい金属の感触。先生から手鏡を渡され、恐る恐る笑顔を作ってみると、そこには見慣れない、サイボーグのような自分がいました。本当の試練は、その日の夜からでした。夕食に用意されていた好物の唐揚げを一口噛んだ瞬間、ズーンという鈍い痛みが全ての歯に響き渡り、咀嚼という行為を完全に拒絶されました。結局、その日は豆腐を丸呑みするのが精一杯。そして、食後の歯磨き。鏡を見て愕然としました。豆腐の破片が、ブラケットとワイヤーの隙間に、まるでアート作品のようにびっしりと挟まっていたのです。それを一本一本の歯から取り除く作業は、もはや「歯磨き」というより「救出活動」に近く、30分以上の時間を要しました。口の中の異物感が気になって、なかなか寝付けない夜。「こんな生活が、これから二年近くも続くのか…」。正直、心が折れそうになりました。でも、同時に思ったのです。この違和感こそが、私が自分の未来を変えるために踏み出した、確かな第一歩の証なのだと。